2ヶ月の振り返り
私は今都内の病院で看護師をしている。ちょうど今日で働き始めて2ヶ月が経った。
2ヶ月。「まだそれだけしか経っていなかったのか」と感じている。それほどまでにこの2ヶ月間が濃く、環境の変化の大きさに思いを馳せずにはいられない。自分の記憶力の低さと注意散漫さに少し押しつぶされそうになりながら、なんとか踏ん張っている。よく色んなところに色んなものをぶつけている。
さて、配属になったのは精神科である。これから記事を書くとしたら割とこの精神科での話だとか、そこから抽出された議題だとか、例え話が多くなるかも知れない。ということで、精神科と聞いてどんなイメージを抱くだろうか。
精神科は看護学生の私にとってもやや特殊な科だった。特殊だと感じていた理由を説明するにあたって、看護の実習のシステムを少し周知しなくてはならないと思う。どうでもいいことでもあるので飛ばしてもらっても構わない。看護学生の実習というのは次の項目に分かれている。
①急性期看護(手術がイメージされる疾患。入院して手術して退院していく過程を学ぶ。)
②慢性期看護(手術して治る、というよりはより慢性的な疾患を持つ患者との関わりを学ぶ。)
③小児看護(成人に当てはまらない、所謂こどもの療養生活を学ぶ)
④周産期看護(お母さん、赤ちゃん、出産)
⑤終末期看護(積極的に治療をしていくことをやめ、痛みをコントロールすることにした患者を対象とした看護を学ぶ)
⑥在宅看護(病院ではなく自宅で治療する患者への看護を学ぶ)
⑦精神看護(精神疾患を抱えた患者の看護を学ぶ)
まだあったかもしれないがざっとこんな項目である。私が7項目目の精神看護に特殊性を感じていたのは、他の項目が病期(どんな治療の過程にあるか)で主に分類されているのと異なり、精神看護はしっかり疾患として分類されていると感じたからである。少しわかりにくくなってしまったかも知れない。要は他の項目はAという病気、Bという病気、というようには分類されていないのだが、精神看護は「精神疾患(病気)を対象とした」看護となっている。
もう一度繰り返すが、精神科ときいてどのようなイメージを抱くだろうか。私は学生のころ、精神科での実習が一番「キツそう」と感じていた。正確には、「興味はあるけれども、理解をできない人たちを前に自分が嘘をつかなければならず、逃げてしまわないか怖かった」のかも知れない。「困っていそうな外国人に声をかけたいけど、訳わからなさそうな言語が返ってきそうで自分の語学力では対応できそうにもない。」感覚と、「今も戦争をしている国では小さい子供たちが飢餓で苦しんでいます、そこに目を向けましょう」と言われている感覚とが混合されているような怖さだった。
思えば、この感覚は割と世間に溢れていないだろうか。電車を乗っているといわゆる「変な人」に出くわすことはないだろうか。急に叫び出したり、ぶつぶつ独り言を言っていたり、突然笑い出したり。そのようなシーンを見かけて、車両を変えたくなったり、目を合わさないようにしたり、逆にバレないように目で追いかけたり。
そういう意味で「理解できなさそうな人」に恐怖を抱いてしまうのは今の社会において相当主体的に考えない限り仕方がないというか、割と「普通」であり、その人たちの感覚を「偏見はやめましょう」程度の浅い啓蒙でどうにかしようとは思わない。ただ、私のこれから述べる精神科での雑感、率直な意見を通して読んでくれた人に少し「気づき」が齎されたらこんなに嬉しいことはない。
働いて2ヶ月、実感するのは「精神科にいる患者さんを理解するのは難しいわけではない」ということである。強迫性障害というカテゴライズを聞いたことがあるだろうか。何度手を洗っても手が洗えている気がしなかったり、気がついたら30分うがいを続けていたりしてしまう人たちがいて、彼らはとにかくそうしないと落ち着けないと話す。そういう人たちを強迫性障害と呼んだりする。「30分も手洗いって、、、」と思うだろう。
でも、誰にでも「これをしないと落ち着かない」ということがあるのではないだろうか。私の場合だと1日ならなんとか耐えられるけど2日お風呂に入らなかったらとてもじゃないがよく寝られない。そんなふうに振り返りながら思う、「彼らはこのスパンが短いだけなのかも知れない」と。
つまり、度の問題なのである。少なくとも同じ国に暮らして似たような情報に晒されている以上、類似する感覚は誰の中にも存在してどこにアンテナを張ってきたのか、どこで情報と自分の感覚をリンクさせてきたのか、そのくらい。今は30分手洗いする人に「強迫性傷害」という病名がつけられているけど、1-2分で手洗いを済ませる人たちが「堕落性障害」ってカテゴライズされてもいいわけだよね、という感覚は持っていていいと思う。
私の意見は割と一貫している。もう少し、「程度」でものを見れる社会になってほしいということである。
月曜日の朝に
21時くらいだろうか。昨日は布団に入ったのがそのくらいの時間だったから、目が覚めて時計を見たら午前2時になろうとしているくらいだったのも不思議ではなかった。
私はおそらく元来、いわゆるショートスリーパーに属する人間である。短いときは4時間くらいで十分だと思えるし、大抵の場合は6時間位で満足感を得られる。12時間寝られる人の話を聞くと(私とは違う種族だ)と思わずにはいられない。そもそも朝の方が好きで楽しい飲み会でもない限り、夜遅くまで起きていられる太刀でもない。尤も、国家試験の勉強期間中は部屋から見える朝日が一番私を癒してくれた。今日からまた仕事なので朝の時間を再び睡眠に費やすことの方が「賢い選択」だったのかもしれないが、なんだか今朝はこの時間を自分の「豊かさ」に繋げたいと思ったので、起きてみることにした。カフェオレを入れて、BGMを聴きながら、最近のことについて整理したくなった。
SNSを見ていると、「彼氏に飽きられないようにする10の秘訣」だとか、「こういう男性には要注意」だとか、そういう記事が目に留まることがある。誰かと一緒にいるとき、「この人は自分と一緒にいて幸せなのだろうか」と不安に思ったり、「この人のことを自分は本当に好きなのだろうか」と疑ってしまったり。学生時代色々な人を見てきたし、友人の恋も見守ってきたし、私自身もそんなthinkerになってしまう節がある。
初めてのことは新鮮だ。初めての食事、初めての映画、初めての旅行、初めての共同生活___。しかし、時々思う。多分、「好き」という気持ち自体はずっとビリビリする刺激的なものでもなくて、どちらかというと「ただ、ある」。それでいて守っていかないといけないものだ。潰されないように、消されないように、吹かれないように、確信し続けること。好きとは何か。好きとは多分、特別なことではない。いや特別でかなり尊いのだけれど、特別でかなり尊いことは、時々振り返って自分の心が温かくなっていくことを感じて、また保存する。上書き保存的作業を要するものであると考えている。あるものやひとが自分の人生になかったらどうだろうと想像してみると胸が痛む。もう、それは多分「好き」なのだと思う。こうやって想像してみる。例えばだけど、今日みたいな早く起き過ぎた朝を使って。
今回このことをテーマにしたのは、中村航の「絶対、最強の恋の歌」という本を薦められて読んだことも影響している。ある大学生カップルがいて、その二人それぞれの側面からそれぞれ恋の描写がされる。文体も正直とても軽くて普通なのだけど、恋の描写がとても心地よかった。絶対なんてないんだけど、絶対を祈りたくなる気持ちは確実にあること。愛情をただ育みたいと願うこと。そう願い続けることだけが、愛情の交換だということ。(ちなみに3時間とか、4時間とかで読めるくらいの軽さでもあったし、それでも大切なことは再確認できるので、おすすめしたい。)
おすすめといえば、人から、(特にすごく有名な人とかではなくて、)友人だとか恋人だとか、そういう人からおすすめされた本を読むというのはとても素敵なことだなと思う。○○賞とか、話題性とある特定の箔がある著者も格好いいし、きっと共有できる人数が多いだろう。かくいう私も「推し、燃ゆ」を読んだし実際に読みながら人の心を本当にのぞいてるかのような、アトラクションに乗っている躍動感を久々に本で味わった。ただ「人から本を借りたりお薦めされて読む」というのはなんだか自分が編んだとてもツブサで曖昧なものから手繰り寄せることのできたものになるというか。ストーリー性を持たせられる気がするのである。今は「羊と鋼の森」を読んでいる。
何が言いたかったんだっけ、あ、そうだ。SNSにはいろんな情報があって、例えばこういう人は選んじゃダメとか、飽きられないようにするためには、とか、駆け引き、とか。いっぱいあるけれど、大切なのは外部に答えを探すのではなく気持ちを「守り続ける」、「願い続ける」ことなんだって言いたかったんだと思う。少なくとも私はそうありたい。
人生は加点式であるという話
「常に自分の欠点を補うように足りないものは何かを見極め努力しましょう」
というようなフレーズをどこかで聞いたことがないでしょうか。試験勉強、研究、部活、仕事、その他様々なところで。そしてそれはしばしばカッコいいと称賛されています。
しかし、わたしはこの考え方は危険であると思わずにはいられません。たしかに、試験には点数があって、100点があって、高得点が何かのチャンスを得やすい。1番から10番の単語があったとして5番の単語が苦手なら、5番の単語を重点的に復習するでしょう。「足りないものを補っている」、先程の考え方に通ずるものがあるといえます。しかしながら、特に点数のつかないものに関しては「不足」という考え方そのものが人を不安に貶めていると思うのです。
具体的な話をします。
世の中、お金持ちになりたいと思う人がたくさんいて、年収という観点で物事を測る場面がたくさんあります。年収500万円、年収700万円、年収1000万円、、、
年収500万円の人は、年収700万円に憧れます。700万円の人から見たら500万円の自分は200万円「足りない」状態だからです。
そして年収700万円の人は、年収1000万円の人に憧れます。年収700万円の人は年収1000万円の人の存在を認識することで「300万円足りない」状態に自分を追いやることになります。
そもそも不足という概念は、完成形があると言う仮定のもと成立します。でも、本当の完成形などあるのでしょうか。
またある別の例を出します。
あなたがドライヤーを買いに家電量販店に行きます。そこには二種類のドライヤーがあります。最新機種とその一つ前の世代の機種。ついこの間まで一つ前の世代の機種でまるで完成形のように扱われていたそのドライヤーはいつしか最新機種の登場により、「下位互換」、最新機種の不足品であるかのように扱われる。これは正しいのでしょうか。
ここに、そもそも完成形の儚さが現れると言うわけです。そもそも欠陥なんて概念自体嘘だと証明ができます。
では、どう言う風に自分を捉えながら何かを目指し生きていくのが正解なのか。私は、「いつの間にかマッチョ」が最もあるべき目指す形だと思います。
「いつの間にか」とわざわざつけました。それは、最初からマッチョを目指すのではなく、毎日一生懸命生きてみる。時々重い荷物があってもとりあえず持ってみる。そうしたらいつのまにか筋肉(力)がついていた。それくらいでいいんじゃないかということです。足りないものを補うのではない、いつの間にか越している。こっちの方が楽しそう。振り返った時に力がついている。
この情報が飛び交う世の中で、「逆算式」が流行って、いつの間にか支配をしているように感じます。きっと情報が正しさを多くの人に押しつけているからだと思います。でも、人生って本当に減点方式なのでしょうか。
人生はいつでも加点である。
ならとびきり楽しい加点を与えたいし、誰かの指摘する欠点なんて気にしなくていい。
と言うことで、新社会人の戯言でした。
私にとっての科学
私にとって文章を書くことは、絶対的に前向きになるための手段である。私は文章を書く時、消化を目的としている時がある。取り入れたもの自体は変わらないもののそれらの形を変え、一部栄養を吸収し不要なものは自らから分離させる。今回はまさに消化的文章であると言える。デトックス。
時々、私は世界から取り離された気がする時がある。それが特に、「科学」をテーマにしたものであることが多いのも自覚している。
今から書くことは、科学を信仰する者、信仰というと抵抗があるかもしれない、科学は絶対だと発言するような「科学に馴染みのある人」にとっては少し厄介な文章になるかもしれない。どこか反対したくなる、少し稚拙な文章になってしまう可能性があるということである。
先日、日本科学未来館に行った。
日本科学未来館とは、東京都江東区にある施設の名称である。時が経っても先進的であると思わせるような洗練された外観と清潔感と開放感のある内装は、多くの人を受け入れ、また多くの人に受け入れられるようなものであった。
私はこの科学未来館に行きたいと常々思っていた。技術そのものに興味があったというよりは、科学者の視点に寄り添いたかったからである。その場では文字や展示された造形物を追ってインプットするのに精一杯で、とてもじゃないが自分の気持ちを整理している場合ではなかった。しかし、私の中の違和感が蓄積されているのは感覚せずにいられなかった。この違和感は窮屈さと似ていた。
窮屈だと感じ始めたのは、AIロボットの展示物を見た時からだった。人間の型を模しており、精巧に作られ、動きはしなやかで、口元は静かに微笑んでいた。
そこまではまだよかった。
「AIとは何かの研究は、人間らしさとは何かの研究である。」
そう、書かれていた。「怖いな」と呟いていた。「怖くなくなるよ、近いうちに」と一緒に行っていた人が言った。(その人は小さい頃にここに来て科学に夢を膨らませた人物である。)恐らく、彼はまるで人間のような顔をした人間じゃないものその物体に対する怖さを私が感じていると思ったのかもしれない。お化けを見るような怖さ。たしかに目新しさは人を怖がらせることがあるし、私の怖さにはこのようなものも含まれていたのかもしれない。うさぎがいくら可愛くてもうさぎそっくりの置物は時に人を怖がらせる。この怖さの正体を私は理解しているような気がするが、今回は本筋から外れるので一旦保留しておく。
しかし、私の怖さの本質はそこにはなかった。
端的に言って、「模倣を模倣と認識していない」、その盲目さに怖さを感じたのである。
私の意見はシンプルである。
科学は感謝すべきものである。
しかし、科学が絶対であるという時、その「絶対」は、科学上の言葉でしかないことを自覚すべきであるということである。自然、人工(機械)。しばしば対立するものして扱われることがある。
対義語。
しかし、機械なんて結局自然からの抽出なのである。対立ではない。抽出。物理とて、化学とて、自然界のあるものもあるものの関係に関連性を見出して名前をつけてるだけにしか思えないのである。
「いつかロボットが人間を支配してしまうかもしれないと思った」
科学館のあるところに男子高校生の言葉として貼り付けられていた。科学者の盲目さは時に彼のような恐怖を生んでいるということである。
科学への盲信と驕りは恐怖を生む。
科学に呑み込まれすぎていないだろうか。
人間らしさとはスムーズに動いたり、絶妙な微笑みの角度を作れたりすることではない。
私は人間らしさとは孤独の回避を求めて足掻くことにあると思う。それが内向的でも外向的でも。人はそれを努力と呼んでいる気がする。
「科学の傲慢さを感じて辛い」と少し話した。ある一定の理解とともに「でもこういう場所があることは大事だと思う」という言葉が返ってきた。
盲信は支配的である。でも、pureな好奇心に罪がないのは重々承知している。
科学的じゃないことも大切である。
pureな好奇心の持ち主は科学の世界観を愛していると思う。それはとても「論理的」で。科学の世界がある種「言語」であることを承知しているだろうか。
世界は物語である。
科学が世界を全て解明できるなどと思ってはいけない気がしてしまう。人々ができることは物語に名前をつけることくらいなのである。
これが私の主張である。
付き合うということ、理解されたいということ
私は誰か異性を異性と意識してしまうことはあっても、付き合いたいと心から思ったことはほとんどなかった。ほとんど、どころではない。本気で「付き合いたい」と思ったことがなかったかもしれない。周りに魅力的な人がいなかったからというわけではない。それぞれ素敵だと思っている。しかし、「魅力的に感じる」と「付き合いたい」ことは私にとっては違うことであった。いや、現在進行形でそう思っている。違うことである。
昔から漠然とそう感じていた。考える間もなくそう感じていた。
「あなた友達多いけど恋愛結構苦労してるでしょう、すぐ冷めちゃったり喧嘩できなくて長続きしないでしょう」
これは占い師に言われたことではない。就活のESの添削および自己分析に行った時にそのキャリア指導者から言われたものである。
図星だった。
結論から言うと私には「自分を開示する癖」が乏しかったことが原因であったと思う。あと自分が相手に対して求めるものがわかっていなかったことだ。そのことを頭の片隅に入れながら私の文章を読んでくれると嬉しい。
今述べたことは私の以下の3人の男性との関係に現れている。
①Aくん(バイトで知り合った大学生)
初めて「彼氏」として存在した人物である。
A君との印象深いエピソードはいくつかあるがだいぶ時が経ってしまった。2つほどあげたい。
1つ目は、彼の遅刻である。彼はある日20分ほど遅刻をしてきた。それ自体を責めるつもりはない。私も怠惰な遅刻魔だ。しかし、理由を聞いてみると趣味の物を買っていたら遅れてしまったとのことだった。謝られもしなかった。「趣味に私は負けたのか」と悲しくなった。それは私の中で少し怒りに変わった。
でも何も言わなかった。(※)
2つ目は、初めてのケンカである。彼はその日怒っていた。私が旅行の日程の調整で迷惑をかけたからである。何度か謝ったがそれもあってか彼の言葉はきつかった。私は話題を変えようと友達の話をした。友達とは私の大好きな親友のことである。その子がバイトに何回か落ちちゃっているという話であった。それを聞いた彼が言った。
「その子に何か問題があるんじゃないの。」
私はその瞬間心のシャッターを閉めた。私にとって友達を貶されるということはそれほどまでに許せないことである。しかもそれが自分のパートナーであれば尚更である。もう閉めたものは2度と開かない気がした。
このはじめてのケンカの日が私が彼と直接会った最後の日でもある。
私は「大事な友達を貶さないで」とも言わなかった。(※)
②Bくん(友達の紹介)
Bくんは、私のことがとにかく好きだった。でも、なぜ私のことが好きなのか分からなかった。なぜなら私は自分を上手く表現できていないと感じるからである。
「キャメが何をしてても好きだし、他の人と遊んでてもいい」
これは私がBくんにある日言われたことである。
「何を見て?」これは本人には言わなかったが私がずっと思っていたことである。また他の人と遊んでていい?では何を求めているのかわからない。
私は不信感を募っていくのをかんじた。この人は私が何をしたら怒るのだろうか。何をしたら嫌いになるのだろうか。何を私の「変わらないところ」だと思って見ているのか。疑念は深まった。
だが、私は本人にそれを聞かなかった。
③Cくん(同級生)
彼には一番感謝をしている。
この3人のうち唯一「喧嘩をふっかけてきてくれた」相手であり、私も「喧嘩仕返した」相手である。ちなみに色々あったが付き合ってはいない。彼は私を敏感だと言った唯一の男性でもある。私は割と、敏感なのを隠すために鈍感なふりをすることがしばしばあるからだ。まぁ本当に鈍感なところもあるが(笑)
喧嘩をし返した時、「お前変わったな」とC君は言った。「は?」と思った。だが振り返ってみると大きな気づきをえる。私は自分の内面をやはり上手く表現できていない。なぜなら私は大して変わっていないからだ。
私は、はじめて人にぶつかった。
そこに残ったのは、刺激だった。
私がこれの経験から学んだことはあまりにも多い。
ずっと逃げてきたがやっと向き合えた気がする。
皆さんは気づいただろうか。①②で私は自分を開示していない。
私は、「理解されたい」のに「理解してもらう努力」をしていなかったのである。
さらに自分という人間を分析していくことにする。
私がここまで喧嘩ができない原因には私の家庭環境がある。我が家は両親の仲が悪い。些細なことで喧嘩してしまう。私は幼少期からこの風景に非常に傷ついてきた。
両親の性格が問題であるのだろうか。そもそも性格が何かというところから話を始めなくてはいけないがそれはここでは割愛する。
ここではあえてNOであると回答する。
私は、「想いの伝え方」が原因であると推測する。
うちの両親は想いの伝え方がお互い下手なのである。つまりコミュニケーションが下手であるとも言える。
よくコミュ力があるない言われているが、一般的に結局口数の多さ少なさを指していることが多いようにも思う。私は「コミュニケーション能力がある」というのは「自分の想いを相手が一番納得する形で表現できること」を指すと思う。
例えばうちの両親の喧嘩はこんな感じである。
⑴「いっつも朝起きるとこの部屋が汚い。私への嫌がらせ?」
⑵「そんなんじゃないよ、俺だっていつも気をつけている」
⑶「気をつけてたらこんなにならないでしょ本当いや。」
最悪である。最初から最後まで。
⑴がまず確実に悪い。「いっつも○○だよね」の○○に悪い言葉を持ってくるのはよくない。その人が頑張って直そうとした過程を完全に否定しまっている。
「頑張ってくれているのは分かるけど、朝起きて食器がシンクにあるのは悲しい」
と伝えるだけで同情を誘える。というか、人は怒った人よりも悲しんでいる人を助けたいと思うだろう。
朝起きてシンクに食器があるのに腹が立つのは、自分がここの掃除を頑張っていることを台無しにされてしまうのが「悲しい」からである。そこに自分で気づけると相手への伝え方のバリエーションが増える。
それか、受け手がここまでを想像して返答をしなければならない。
私はしばしば「コミュ力あるよね」と言われる。しかしこれは違ったのかもしれない。
確かに、傾聴力はある方だと思う。しかし、自分の想いを伝えることは専ら苦手であると気づいたからだ。
良いコミュニケーションはシンプルである。
⓪相手の意見を聞こうとすること(相手も理解されたがっている)
①自分の想いに気づくこと(怒りは悲しみかもしれない)
②それを自分が聞いても相手が聞いても心地よい言葉を選び伝えること(言葉は癒しにも毒にもなる)
この3段階であると思う。
ちなみに想いに気づくことはそんなに難しいことではない。なんでそう思ったのかを自分に聞いてみることである。
私はRolandが好きである。
彼はこれが得意である。自分の想いに気づき、それをとてもロマンチックで少し笑いを誘ってしまうようなハイセンスな言葉選びができる。そんなハイセンスな言葉は相手にも伝わる。だから好きだ。
私も読書をしよう、と思った。何かおすすめの本があれば教えて欲しい。
あと、簡単に誰かに対して「こういう性格だよね」というのはやめよう。「そういうことをする傾向がある」だけである。本当は本人だって嫌だと感じているかもしれない。そして本人は自己と他者との認識の差に苦しんでしまう。「性格悪い」などと何がどう悪いのかその想いに何が隠されてるかもわからない部分を見て相手を判断するのもやめよう。自分のことを愛する機会を失ってしまうかもしれない。
結局、私が付き合いたいと思わなかったのは「理解されない」ことに傷つきたくなかったからである。
しかし私は学ぶことができた。私は人を知るのが好きである。本来付き合うということには割と刺激を見出せるはずであるし、親友とはそういう関係を築けてきた。
これからが楽しみである。
私がブログを再開した理由もなんとなくわかってもらえるだろうか。
自分の想いに気づくためであり、それを上手く表現したいからである。絶賛リハビリ中である。
最後まで付き合ってくれた人はありがとう。
懐かしいという気持ち
時々、仮面浪人をしていた時のことを思い出す。
馬鹿で、視野も狭くて、でもなんだか熱く燃えていた。懐かしい。
懐かしい、とはどういう気持ちだろう。懐かしい、とまとめてしまうのは勿体無い。懐かしい、とはもっと深い感情な気がする。広辞苑をひくのも早いが、その前は私はもっと主観的に懐かしいという気持ちを捉えたい。だから思い出してみた。
私は3年前、仮面浪人をしていた。仮面浪人とは大学に在籍しながら他大学への受験を試みることである。私は一時期この「仮面浪人」に非常に魅力を感じてた。理由はたくさんあった。最も大きなものは「看護師になると決められなかった」ことによる葛藤が辛かったことだった。思えば、もっと肩の力を抜いていいんだよとか、当時の私に声をかけてあげたいことが多い。
落ちた時は大学の教授の部屋でもう無理ですって泣き散らかした。
結局そのあと、私の大学生活は豊かだった。三年生で患者さんを受け持ち始めると人というものの面白さに凄く惹かれた。人はみんながみんな言葉をうまく使えない。その裏にある想いに気づけた時「人を理解する」ことに近づけた気がする。そんな瞬間に豊かさを感じる。もちろん人を100%理解できることなどないが興味を持たなければその%が増えることもない。
私は単純なのかもしれない。
結局、その豊かさを感じられる時私は過去を肯定できる。
でも私は昔のその時期の私が好きだ。仮面浪人をしていた時の私を愛おしく思えることがある。
懐かしい、とは過去を愛おしく思えることだ。と思う。
それが大変なことでも、すごく楽しいことでも、それを思い出したときにどこか愛おしいと思えることだと思う。
仮面浪人自体を悪いことだとか良いことだとか、そんな答えのないものにわざわざ振り回される必要はない。受かれば嬉しい。ただ仮面浪人の一つの成功例は、たとえその結果がどうであろうとも仮面浪人を「懐かしく」感じられることだと思う。少なくとも私はそう信じている。
そしてこれからも「失敗するかどうか」ではなく、過去を懐かしく、つまり愛おしく思えるようにしたい。
一つ、気になっていることがある。私が仮面浪人時代に切磋琢磨していた友人が仮面浪人を懐かしく思えているかどうか、ということだ。
もし、何年かぶりにこのブログを開いた人がいれば私からのラブレターだと思って拾ってほしい。
フワフワオムレツ
3月にモンサンミッシェルに行ったわけなのですが、モンサンミッシェルで有名なオムレツってご存知ですか?
日本で通常食べられるものとはちょっとばかし違うオムレツなんですが、
なにせ高い。
とっても有名なお店でモンサンミッシェルでご飯といえばラ・メール・プラールという感じなのですが、なんか知りませんがオムレツで4000円以上(コースにしたらさらに高い)するので、
特に私みたいな貧乏学生にはオススメはできない。
そんな時、tasty japanをふと見ていたら、似たようなフワフワオムレツが作られてたので作ってみました。
まぁフォトジェニックではありませんが、卵白を泡立てれば勝ち、なので料理偏差値2の私にもそれらしきものは作れました。
結論:モンサンミッシェルでわざわざ高いお金払って食べなくても良い。
ちなみに私は料理がほとんど何もできません。というかやってこなかったので休学中に自分でご飯を作れるようになろうと思い、料理もブログにしようと決めました。
ということで、ちゃんと考察しておきます。
[材料]
卵 3個
塩胡椒
バター 大さじ2
卵を卵白と卵黄に分けて泡だて、弱火で蒸すということだったのですが、
卵白が泡だたなくて泡立たなくてミキサー使ったら台所がかなり汚れたので今度は大きめのボウルを使おうと思いました。
あと、酢を使うと泡立ちがきえにくくなる?らしいですね。化学強い人解説おなしゃす
そんなこんなでヨーロッパ旅行を経て思ったのですが、海外でご飯にお金を使うということは非常にもったいない。
特にフランスとか観光大国では、コストパフォーマンスの悪さがカンストしていますね。
遠い母国を思い、「これ日本だったらもっと安く食べられたな」を無限に思い繰り返すわけです。もちろん、美食の街なだけあってまずいことはめっったにない(というか出くわさなかった)のですが。
普通にスーパーで惣菜とか買ってるんるんする方がなんか楽しい生活できると思いました。お昼ご飯で日本のディナー以上の値段するんですもん(゚д゚)
(↑日本食が恋しくて寿司を買った友達)
フランスでの出費で後悔したのはそんなですね。
あと私は何に散財したかというとマカロン。めーちゃめちゃ大好きなので今度マカロンだけで記事書けそう書こう。