私にとっての科学

私にとって文章を書くことは、絶対的に前向きになるための手段である。私は文章を書く時、消化を目的としている時がある。取り入れたもの自体は変わらないもののそれらの形を変え、一部栄養を吸収し不要なものは自らから分離させる。今回はまさに消化的文章であると言える。デトックス

 

 

時々、私は世界から取り離された気がする時がある。それが特に、「科学」をテーマにしたものであることが多いのも自覚している。

今から書くことは、科学を信仰する者、信仰というと抵抗があるかもしれない、科学は絶対だと発言するような「科学に馴染みのある人」にとっては少し厄介な文章になるかもしれない。どこか反対したくなる、少し稚拙な文章になってしまう可能性があるということである。

 

 

先日、日本科学未来館に行った。

日本科学未来館とは、東京都江東区にある施設の名称である。時が経っても先進的であると思わせるような洗練された外観と清潔感と開放感のある内装は、多くの人を受け入れ、また多くの人に受け入れられるようなものであった。

 

私はこの科学未来館に行きたいと常々思っていた。技術そのものに興味があったというよりは、科学者の視点に寄り添いたかったからである。その場では文字や展示された造形物を追ってインプットするのに精一杯で、とてもじゃないが自分の気持ちを整理している場合ではなかった。しかし、私の中の違和感が蓄積されているのは感覚せずにいられなかった。この違和感は窮屈さと似ていた。

 

窮屈だと感じ始めたのは、AIロボットの展示物を見た時からだった。人間の型を模しており、精巧に作られ、動きはしなやかで、口元は静かに微笑んでいた。

そこまではまだよかった。

 

「AIとは何かの研究は、人間らしさとは何かの研究である。」

 

そう、書かれていた。「怖いな」と呟いていた。「怖くなくなるよ、近いうちに」と一緒に行っていた人が言った。(その人は小さい頃にここに来て科学に夢を膨らませた人物である。)恐らく、彼はまるで人間のような顔をした人間じゃないものその物体に対する怖さを私が感じていると思ったのかもしれない。お化けを見るような怖さ。たしかに目新しさは人を怖がらせることがあるし、私の怖さにはこのようなものも含まれていたのかもしれない。うさぎがいくら可愛くてもうさぎそっくりの置物は時に人を怖がらせる。この怖さの正体を私は理解しているような気がするが、今回は本筋から外れるので一旦保留しておく。

しかし、私の怖さの本質はそこにはなかった。

 

端的に言って、「模倣を模倣と認識していない」、その盲目さに怖さを感じたのである。

 

 

 

私の意見はシンプルである。

科学は感謝すべきものである。

しかし、科学が絶対であるという時、その「絶対」は、科学上の言葉でしかないことを自覚すべきであるということである。自然、人工(機械)。しばしば対立するものして扱われることがある。

対義語。

しかし、機械なんて結局自然からの抽出なのである。対立ではない。抽出。物理とて、化学とて、自然界のあるものもあるものの関係に関連性を見出して名前をつけてるだけにしか思えないのである。

 

「いつかロボットが人間を支配してしまうかもしれないと思った」

科学館のあるところに男子高校生の言葉として貼り付けられていた。科学者の盲目さは時に彼のような恐怖を生んでいるということである。

 

 

科学への盲信と驕りは恐怖を生む。

科学に呑み込まれすぎていないだろうか。

人間らしさとはスムーズに動いたり、絶妙な微笑みの角度を作れたりすることではない。

私は人間らしさとは孤独の回避を求めて足掻くことにあると思う。それが内向的でも外向的でも。人はそれを努力と呼んでいる気がする。

 

 

「科学の傲慢さを感じて辛い」と少し話した。ある一定の理解とともに「でもこういう場所があることは大事だと思う」という言葉が返ってきた。

 

盲信は支配的である。でも、pureな好奇心に罪がないのは重々承知している。

科学的じゃないことも大切である。

pureな好奇心の持ち主は科学の世界観を愛していると思う。それはとても「論理的」で。科学の世界がある種「言語」であることを承知しているだろうか。

 

 

 

世界は物語である。

科学が世界を全て解明できるなどと思ってはいけない気がしてしまう。人々ができることは物語に名前をつけることくらいなのである。

これが私の主張である。