人生は加点式であるという話

 

「常に自分の欠点を補うように足りないものは何かを見極め努力しましょう」

というようなフレーズをどこかで聞いたことがないでしょうか。試験勉強、研究、部活、仕事、その他様々なところで。そしてそれはしばしばカッコいいと称賛されています。

 

しかし、わたしはこの考え方は危険であると思わずにはいられません。たしかに、試験には点数があって、100点があって、高得点が何かのチャンスを得やすい。1番から10番の単語があったとして5番の単語が苦手なら、5番の単語を重点的に復習するでしょう。「足りないものを補っている」、先程の考え方に通ずるものがあるといえます。しかしながら、特に点数のつかないものに関しては「不足」という考え方そのものが人を不安に貶めていると思うのです。

 

具体的な話をします。

世の中、お金持ちになりたいと思う人がたくさんいて、年収という観点で物事を測る場面がたくさんあります。年収500万円、年収700万円、年収1000万円、、、

年収500万円の人は、年収700万円に憧れます。700万円の人から見たら500万円の自分は200万円「足りない」状態だからです。

そして年収700万円の人は、年収1000万円の人に憧れます。年収700万円の人は年収1000万円の人の存在を認識することで「300万円足りない」状態に自分を追いやることになります。

 

そもそも不足という概念は、完成形があると言う仮定のもと成立します。でも、本当の完成形などあるのでしょうか。

 

またある別の例を出します。

あなたがドライヤーを買いに家電量販店に行きます。そこには二種類のドライヤーがあります。最新機種とその一つ前の世代の機種。ついこの間まで一つ前の世代の機種でまるで完成形のように扱われていたそのドライヤーはいつしか最新機種の登場により、「下位互換」、最新機種の不足品であるかのように扱われる。これは正しいのでしょうか。

 

ここに、そもそも完成形の儚さが現れると言うわけです。そもそも欠陥なんて概念自体嘘だと証明ができます。

 

 

では、どう言う風に自分を捉えながら何かを目指し生きていくのが正解なのか。私は、「いつの間にかマッチョ」が最もあるべき目指す形だと思います。

「いつの間にか」とわざわざつけました。それは、最初からマッチョを目指すのではなく、毎日一生懸命生きてみる。時々重い荷物があってもとりあえず持ってみる。そうしたらいつのまにか筋肉(力)がついていた。それくらいでいいんじゃないかということです。足りないものを補うのではない、いつの間にか越している。こっちの方が楽しそう。振り返った時に力がついている。

 

 

この情報が飛び交う世の中で、「逆算式」が流行って、いつの間にか支配をしているように感じます。きっと情報が正しさを多くの人に押しつけているからだと思います。でも、人生って本当に減点方式なのでしょうか。

 

 

人生はいつでも加点である。

ならとびきり楽しい加点を与えたいし、誰かの指摘する欠点なんて気にしなくていい。 

 

 

と言うことで、新社会人の戯言でした。