付き合うということ、理解されたいということ

私は誰か異性を異性と意識してしまうことはあっても、付き合いたいと心から思ったことはほとんどなかった。ほとんど、どころではない。本気で「付き合いたい」と思ったことがなかったかもしれない。周りに魅力的な人がいなかったからというわけではない。それぞれ素敵だと思っている。しかし、「魅力的に感じる」と「付き合いたい」ことは私にとっては違うことであった。いや、現在進行形でそう思っている。違うことである。

昔から漠然とそう感じていた。考える間もなくそう感じていた。



「あなた友達多いけど恋愛結構苦労してるでしょう、すぐ冷めちゃったり喧嘩できなくて長続きしないでしょう」

これは占い師に言われたことではない。就活のESの添削および自己分析に行った時にそのキャリア指導者から言われたものである。

図星だった。

結論から言うと私には「自分を開示する癖」が乏しかったことが原因であったと思う。あと自分が相手に対して求めるものがわかっていなかったことだ。そのことを頭の片隅に入れながら私の文章を読んでくれると嬉しい。

今述べたことは私の以下の3人の男性との関係に現れている。



Aくん(バイトで知り合った大学生)

初めて「彼氏」として存在した人物である。

A君との印象深いエピソードはいくつかあるがだいぶ時が経ってしまった。2つほどあげたい。

 1つ目は、彼の遅刻である。彼はある日20分ほど遅刻をしてきた。それ自体を責めるつもりはない。私も怠惰な遅刻魔だ。しかし、理由を聞いてみると趣味の物を買っていたら遅れてしまったとのことだった。謝られもしなかった。「趣味に私は負けたのか」と悲しくなった。それは私の中で少し怒りに変わった。

でも何も言わなかった。()

 2つ目は、初めてのケンカである。彼はその日怒っていた。私が旅行の日程の調整で迷惑をかけたからである。何度か謝ったがそれもあってか彼の言葉はきつかった。私は話題を変えようと友達の話をした。友達とは私の大好きな親友のことである。その子がバイトに何回か落ちちゃっているという話であった。それを聞いた彼が言った。

「その子に何か問題があるんじゃないの。」

私はその瞬間心のシャッターを閉めた。私にとって友達を貶されるということはそれほどまでに許せないことである。しかもそれが自分のパートナーであれば尚更である。もう閉めたものは2度と開かない気がした。

このはじめてのケンカの日が私が彼と直接会った最後の日でもある。

私は「大事な友達を貶さないで」とも言わなかった。()



Bくん(友達の紹介)

Bくんは、私のことがとにかく好きだった。でも、なぜ私のことが好きなのか分からなかった。なぜなら私は自分を上手く表現できていないと感じるからである。

「キャメが何をしてても好きだし、他の人と遊んでてもいい」

これは私がBくんにある日言われたことである。

「何を見て?」これは本人には言わなかったが私がずっと思っていたことである。また他の人と遊んでていい?では何を求めているのかわからない。

私は不信感を募っていくのをかんじた。この人は私が何をしたら怒るのだろうか。何をしたら嫌いになるのだろうか。何を私の「変わらないところ」だと思って見ているのか。疑念は深まった。

だが、私は本人にそれを聞かなかった。



Cくん(同級生)

彼には一番感謝をしている。

この3人のうち唯一「喧嘩をふっかけてきてくれた」相手であり、私も「喧嘩仕返した」相手である。ちなみに色々あったが付き合ってはいない。彼は私を敏感だと言った唯一の男性でもある。私は割と、敏感なのを隠すために鈍感なふりをすることがしばしばあるからだ。まぁ本当に鈍感なところもあるが(笑)

喧嘩をし返した時、「お前変わったな」とC君は言った。「は?」と思った。だが振り返ってみると大きな気づきをえる。私は自分の内面をやはり上手く表現できていない。なぜなら私は大して変わっていないからだ。

私は、はじめて人にぶつかった。

そこに残ったのは、刺激だった。




私がこれの経験から学んだことはあまりにも多い。

ずっと逃げてきたがやっと向き合えた気がする。

皆さんは気づいただろうか。①②で私は自分を開示していない。

私は、「理解されたい」のに「理解してもらう努力」をしていなかったのである。



さらに自分という人間を分析していくことにする。

私がここまで喧嘩ができない原因には私の家庭環境がある。我が家は両親の仲が悪い。些細なことで喧嘩してしまう。私は幼少期からこの風景に非常に傷ついてきた。

両親の性格が問題であるのだろうか。そもそも性格が何かというところから話を始めなくてはいけないがそれはここでは割愛する。

ここではあえてNOであると回答する。


私は、「想いの伝え方」が原因であると推測する。

うちの両親は想いの伝え方がお互い下手なのである。つまりコミュニケーションが下手であるとも言える。

よくコミュ力があるない言われているが、一般的に結局口数の多さ少なさを指していることが多いようにも思う。私は「コミュニケーション能力がある」というのは「自分の想いを相手が一番納得する形で表現できること」を指すと思う。


例えばうちの両親の喧嘩はこんな感じである。

⑴「いっつも朝起きるとこの部屋が汚い。私への嫌がらせ?」

⑵「そんなんじゃないよ、俺だっていつも気をつけている」

⑶「気をつけてたらこんなにならないでしょ本当いや。」


最悪である。最初から最後まで。

⑴がまず確実に悪い。「いっつも○○だよね」の○○に悪い言葉を持ってくるのはよくない。その人が頑張って直そうとした過程を完全に否定しまっている。

「頑張ってくれているのは分かるけど、朝起きて食器がシンクにあるのは悲しい」

と伝えるだけで同情を誘える。というか、人は怒った人よりも悲しんでいる人を助けたいと思うだろう


朝起きてシンクに食器があるのに腹が立つのは、自分がここの掃除を頑張っていることを台無しにされてしまうのが「悲しい」からである。そこに自分で気づけると相手への伝え方のバリエーションが増える。



それか、受け手がここまでを想像して返答をしなければならない。




私はしばしば「コミュ力あるよね」と言われる。しかしこれは違ったのかもしれない。

確かに、傾聴力はある方だと思う。しかし、自分の想いを伝えることは専ら苦手であると気づいたからだ。


良いコミュニケーションはシンプルである。

⓪相手の意見を聞こうとすること(相手も理解されたがっている)

①自分の想いに気づくこと(怒りは悲しみかもしれない)

②それを自分が聞いても相手が聞いても心地よい言葉を選び伝えること(言葉は癒しにも毒にもなる)

この3段階であると思う。



ちなみに想いに気づくことはそんなに難しいことではない。なんでそう思ったのかを自分に聞いてみることである。



私はRolandが好きである。

彼はこれが得意である。自分の想いに気づき、それをとてもロマンチックで少し笑いを誘ってしまうようなハイセンスな言葉選びができる。そんなハイセンスな言葉は相手にも伝わる。だから好きだ。

私も読書をしよう、と思った。何かおすすめの本があれば教えて欲しい。



あと、簡単に誰かに対して「こういう性格だよね」というのはやめよう。「そういうことをする傾向がある」だけである。本当は本人だって嫌だと感じているかもしれない。そして本人は自己と他者との認識の差に苦しんでしまう。「性格悪い」などと何がどう悪いのかその想いに何が隠されてるかもわからない部分を見て相手を判断するのもやめよう。自分のことを愛する機会を失ってしまうかもしれない。





結局、私が付き合いたいと思わなかったのは「理解されない」ことに傷つきたくなかったからである。

しかし私は学ぶことができた。私は人を知るのが好きである。本来付き合うということには割と刺激を見出せるはずであるし、親友とはそういう関係を築けてきた。

これからが楽しみである。





私がブログを再開した理由もなんとなくわかってもらえるだろうか。

自分の想いに気づくためであり、それを上手く表現したいからである。絶賛リハビリ中である。

最後まで付き合ってくれた人はありがとう。